「○○を詰め込みました」はダメなのか

マジックやその他あらゆるクリエイティブな作品について、「自分が好きなものを詰め込みました」という表現を見ることがあります。この表現にはバリエーションがあって、「自分が面白いと思うものを詰め込みました」や「自分が格好良い(可愛い)と思うものを詰め込みました」などもあります。

これらの表現はポジティブな感じがしますし、一見無難なコメントに見えますが、私は以前から何となく違和感を感じていました。そこで今回はその気持ちを言語化してみます。

まず大前提として、自分の作品に「自分が嫌いなもの」を詰め込んだり、「自分がつまらないと思うもの」を詰め込むよりははるかにましであると思います。

その上で私はまだ何かが不十分であると思うのです。そしてそれは主に2つの理由がありました。

詰め込んではいけない理由1「取捨選択」

基本的に一人の人間であっても好きなもの、興味のあるものは多岐にわたっているはずです。それを全部一つの作品に詰め込んだとしても、必ずしも良いものになるとは限りません。

やはり作品との相性もありますので、いくら気に入った部分でも、今回は見送り、別の作品に利用した方が良いものもあると思うのです。

ただし、好きなものを全部詰め込んで成功した実例も世の中にはあると思います。しかしそれは、クリエイターが意識的か無意識か、非常にセンス良く取捨選択しているのだと思います。

部屋のインテリアにも似ていて、いくら自分の部屋だからと言って自分の好きなものであふれかえっていたら、普通は統一感がなく、少なくとも格好良いセンスの良い部屋にはならないはずです。好きなものでも、物によっては、目に入らないように収納しておいた方が良いものもあるのです。

詰め込んではいけない理由2「詰め込むことより大切なこと」

「好きなものを全部詰め込もう」と考えたとき、詰め込むことが目的化してしまうこともあるのではないでしょうか?むしろ大切なことは「好きなものを詰め込むこと」ではなく「なぜ好きなのか」を追求することのような気がします。

なぜ自分はそのようなものが好きなのか、それがどうしたら他人に理解、共感してもらえるのか、ということを考えるのが大切であり、「好きだから」などの単純な言葉でごまかしてはいけないと思うのです。

例えばマジックが好きだったとしても、マジックの中でもどんなマジックが好きなのか、どんなマジシャンが演じるマジックが好きなのか、どの部分が好きなのか、など分析の余地があると思います。

もちろん、人と話すときなどにあまりに説明に時間がかかって相手が退屈してしまう可能性があるときなどに、「私はなんとなく○○が好きです」などと言ってしまうことはあると思います。しかし、自分が心血を注ぐ作品に対しては、自分をごまかさずに分析する必要があると思うのです。

おわりに

私が最近このようなことを考えているのは、今月22日のライブの準備をしているからです。不用意な発言は自分の首を絞めますが、それでも一つひとつの作品、そしてそれらが集積したライブも一つの作品と考えると、とても貴重な経験になっていると思います。

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