作品がもし自分の子供だとしたら

先週、小説の映画化について記事を書いたばかりですが、今、漫画のドラマ化について、世間で大変な話題となっています。私もマジシャンというクリエイティブの端くれとして、意見を書こうと思います。

ただし、個別のケースについては詳しく知りませんので、一般的なケースについてです。

原作者の立場なら

まず大前提として、小説や漫画などの紙媒体を映像作品にすると、どうしても別物になってしまうということを理解しておく必要があります。

もちろん、原作者の無念もわかります。原作は原作者の「生みの苦しみ」を経て、生まれたのだという意見もありました。私は「生みの苦しみ」「作品は我が子」という表現はまさに言い得て妙だと思います。

もし、作品が自分の子供だとしたら、子供が幼い時分はともかく、立派に成長した後もずっと自分の思い通りにしておくというのは不可能です。実際、自分の子供であっても、思い通りに成長するとは限らず、むしろ思わぬ方向に進んでいくのはよくあることです。

そもそも、作品は、映像化するまでもなく、発表した瞬間から独り歩きを始めます。

小説や漫画にしても、読者の誤読、誤解、曲解によって、作者の思わぬ方向に受け取られるのは多々あることであり、何らかの作品を発表する以上、避けられぬことです。

苦しんで生み出し、やっとの思いで育て上げたと思ったら、世間の影響を受けて歪められ、ついには自分の手から離れていってしまう。まさに子育てそのものであり、この苦痛から逃れるためには、「作品作り(子育て)とはそういうものだ」とあきらめるしかないのだと思います。

そもそも、原作が人気だから映像化されたはずです。その映像作品が仮に原作者にとって別物になっていたとしても、その映像作品によってますます原作を読んでみようという人が増えると思います。そこでより多くの人に原作を読んでもらい、そこで初めて映像作品との違いを感じる人もいることでしょう。そのときに改めて評価を得るはずです。

原作と映像は別物として割り切り、作品は我が子だからこそ、思い通りには成長しないとあきらめることが救いになるのではないかと思います。

脚本家の立場なら

作品をゼロから作るのはとても難しいことです。私自身もゼロからマジックをつくったことはほとんどありませんし、他の多くのマジシャンもそうです。

一見、新作に見えても、旧作のアレンジだったり、表装の刷新だったりします。これはあらゆる創作で共通だと思います。

自分以外の人が考えたマジックを演じる場合、せめて原作者が嫌な思いをしないようにすることが大切であり、その答えの一つはクラシックです。

源氏物語をいかに改変しようとも、紫式部が悲しむことはありませんし、アイネクライネナハトムジークをお笑いで使おうとも、モーツアルトが怒ることはありません。同様に、シカゴの四つ玉やリストード・ロープを自分なりに改案、アレンジして演じるのは何の問題もありません。

つまり、ゼロから生み出すのが難しい場合、古典に材を採るのはとても良い解決策です。

他にも、本やDVDで発表されたマジックを演じるのも良いと思います。そもそも、誰にも演じてほしくない作品は、本やDVDで発表しないからです。それでも、原作者が嫌な思いをしないよう気を配ることだけは大切です。

例えば、いかに対価を払って得たマジックであっても、それをインターネットで無節操に明かされたら、原作者は嫌がるでしょう。

ほとんどの人はゼロから作品をつくることはできませんし、ゼロからつくったように見えても様々な先行作品の影響を受けているはずです。結局のところ、原作者に対して最大限の思いやりをもって作品をつくるしかなく、また、そうでなければ私たちは何もつくれなくなってしまいます。

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