今回はいよいよチェーホフが劇中に挿入したマジックの考察に入ります。やはり本文には「桜の園」原作のネタバレが含まれます。
なぜマジックが登場するのか
劇中でマジックを演じるのはシャルロッタという女性です。この人物は主人公の没落貴族ラネーフスカヤ夫人の娘の家庭教師という肩書きです。その人がなぜマジックをするのかというと、実は元サーカス芸人なのです。
今でもロシアといえばボリショイサーカスなどで有名ですが、当時は今以上に大小のサーカス団が各地を巡業していたのかもしれません。シャルロッタも子供の頃サーカスに出演していましたが、やがて両親の死をきっかけに引き取られ、そこで学問を修めて家庭教師になったという設定です。
そんなわけでマジックだけでなく、腹話術や曲芸など、雑多な芸を習得している家庭教師のシャルロッタが、第3幕のダンスパーティーのシーンで、一堂にマジックを披露するのです。
さて、そんな我らがシャルロッタから、先日贈り物が届きました!
とてもお洒落なゼリーの詰め合わせでした。「桜の園」にかけて花びらの入った桜ゼリーというのがまたお洒落です。しかも、シャルロッタ名義のメッセージカードまで添えて!これだけでもマジック監修した甲斐があったというものです。しかし、配達員の方も「宮沢りえ様」より「ダーク和秋様」へ、という強烈な宛名書きに少々困惑していました(笑)。
シャルロッタのパフォーマンス
最初に披露するのは一連のカードマジックです。
①観客の1人にデックを渡し、1枚のカードを頭に思い浮かべてもらう。デックをシャッフルしたら返してもらう。「アイン、ツワイ、ドライ(ロシア語で1、2、3)」の掛け声をかけると、そのカードが観客のポケットから出てくる
②デックは演者が持っている。観客に好きなカードを言わせ、デックのトップ(一番上)をめくると、そのカードである。これを別の観客でもう一度繰り返す。
③手の平でデックを叩くと、デックが完全に消え失せる(デックバニッシュ)。
おそらくチェーホフはマジックにはあまり詳しくなかったと思われ、特に①はマジックとして欠陥があります。マジック自体の実現可能性はともかく、このタイプのマジックをするなら、お客さんにカードを思い浮かべてもらうだけでなく、実際に声に出して言うか、どこかにメモしてもらわなければ、何も証拠がないために、驚くのは実際に思い浮かべた観客だけで、本当に当たったのかどうか、他のお客さんに伝わりません。
そのため、他の観客はこのマジックを信じないどころか、その観客がサクラだということを疑うしかありません。また、そもそもこの構成だと、お客さんにカードを手渡したり、シャッフルさせたりする意味もありません。
しかし、現象そのものは大変強烈ですので、適切な演じ方をすればツカミとして十分なマジックになると思います。例えば、観客に手渡すのを省く代わりに、何人かの客にカードを指定させ、観客ではなく演者のポケットからそのカードを取り出して見せるのです。実際に演じると以下のようになります。
「それではカードマジックをお見せしましょう。何人かの方に手伝っていただきたいのですが、トランプの好きなマークをおっしゃってください。スペードですか?次は別の方に、好きな数字を教えてください。8ですね。実はそのカード、あらかじめ私のポケットに入れておいたのです。」
といった感じです。これならサクラを疑われることなく、十分にマジックとして成立しそうです。
さて、次に②のマジックですが、これまたお芝居と現実で難易度の違うマジックです。①のマジックと同様、お芝居なら台本通りのカードを言ってもらえば訳ないのですが、実際にマジックとして演じようとすると大変難しいマジックです。現代ならこれに近いことができるマジシャンはいると思いますが、100年以上前のロシアにそんなマジシャンがいたとは思えませんので、やはりチェーホフが芝居用に創作したマジックだと思います。
といっても、①のマジックと違い、マジックとしての破綻はないので、お芝居の中で演じる分には問題のないマジックだと思います。
そして意外や意外、3つ目のマジックは①や②と反対に、マジシャンにとっては最も実演容易で、逆に演劇関係者を悩ませるマジックです。というのもこれは唯一、物理的な現象なので、脚本上の仕込みが通用せず、本当に消すしかないからです。反面、マジシャンにとっては観客による52分の1のフリーチョイスが存在しない分、演じやすいのです。
以上が、カードの手順です。この後、腹話術のパートに移ります。
④床下にいる別の女性と会話してみせる
今でこそ、腹話術といえば口をパクパクする人形を持って、その人形と会話する形式が一般的ですが、もっと原初的な腹話術の演出では人形を使わず、ドアの外や窓の外、天井裏などにいる人物と会話するものでした。例えば、天井に向かって、
「おーい、屋根の修理は終わったかい?」
「(少しくぐもった声で)もう少しで終わりそうでーす。」
といった具合です。しかし、目の前の人形と会話する方が圧倒的に自由度が高く、パフォーマンスしやすいので、今日ではシャルロッタのような古いタイプの腹話術を目にすることはほとんどなくなってしまいました。ですから、この部分をそのままお芝居に使うと、現代人にとっては、腹話術だということがちょっと伝わりにくくなってしまうかもしれませんので、何らかのアレンジをしてみても良いと思います。
さあ、最後のパートはまさかのイリュージョンです。
⑤大きなラシャ布を振ると中から女の子(登場人物のアーニャ)が出てくる。さらにもう一人女の子(登場人物のワーリャ)が出てくる
これは何もないまっさらな舞台でやろうとすると大変ですが、大道具小道具の陰に隠れられるスペースがあればできそうです。また、一般的には舞台袖の幕を使ったりもします。演者が布を持ってステージを左右に歩きながら、布を改めると見せて舞台袖から布の中に入ってしまうのです。もちろん女の子が出てくる場所はロード(?)した場所と離しておく必要があります。ただし、言うは易く行うは難しで、中々不思議に見せるのは難しいマジックではあります。
以上が、ダンスパーティーでのシャルロッタのパフォーマンスとなります。本来ならシアターコクーンで今も桜の園が上演中でした。多芸多才で、高慢で、でも孤独な自由人シャルロッタにも会うことはできません。
桜の園は最後、売られて桜も伐採されてしまいます。今まで当たり前だと思っていたもの、盤石だと思っていたものが失われていく中で、登場人物たちは、ある者は死にゆき、ある者は未来を夢見て、ある者はすべてを失い、ある者はすべてを手に入れ、明日を模索していきます。この作品は今こそ私たちに投げかけられているのではないでしょうか?